名古屋大学大学院
医学系研究科
分子細胞免疫学 教授 西川 博嘉
医学部を卒業してから5年間は、神経内科で臨床医をしていました。患者様を診るとき、例えば左手が麻痺していたら、脳のどの部分に疾患があるかを突き止める必要がある。ひとつの現象と身体機能とを結び付けて論理的に物事を考えるスキルが求められました。そのような論理的思考が好きで神経内科を専攻しました。神経内科が扱う病気の大変さを表現する言葉として、神経内科は3つの「ない」がある、と言われています。「分からない、治らない、諦めない」。当時は診療の現場でいろいろと試行錯誤して、その「ない」に立ち向かっていましたが、今思い返せば、研究の必要性はそのころから感じていたのかもしれません。原因が分からず、治らない病気を、分かって、治るように変えていきたい。自然とそんな気持ちが芽生えていました。その後、大学院に進学した私は、疾患研究とは関係のない生化学の研究室に学内留学しました。遠回りしたよう見えますが、研究の手技や考え方のプロセスを基礎から学ぶことができ、留学してから役に立ったと思います。
臨床医から大学院を経て、私が向かった先はアメリカでした。最先端の研究室で研究し、神経難病を「わかる」ようになりたかったのです。大学院時代に直接指導していただいた先生が留学帰りの元内科医の先生で、私も海外の多くの先生との共同研究に関わらせていただいたことに刺激を受け、大学院を卒業したのちも海外でさらに研究したいと思うようになりました。受け身では、困難に打ち勝てない。留学先は誰かに紹介されたのではなく、自ら手紙を書いて面接に行き、採用してもらいました。インタビュー(採用面接)のことを今でも覚えていますが、45分間みっちり英語でプレゼンをして、1日中、研究室のスタッフと研究内容についてディスカッションして、お互いに同僚としてやっていけるかを品定めされた記憶があります。
研究テーマにしたのはALS(筋萎縮性側索硬化症)。運動神経が死んでいく原因不明の疾患で、進行すると食べ物を飲み込むことやも呼吸もできなくなる、神経難病の中でもいちばんの難病と言われていました。原因遺伝子も私が医学生の頃は分かっておらず、卒業後2年目に最初の原因遺伝子が見つかったばかりで、未知のことが多く、研究のやりがいがある分野でした。
運動神経がなぜ死んでいくか、どのようにしたら神経細胞の死を止められるかというテーマが世界のALS研究の焦点でした。留学先では、当時あまり注目されていなかった運動神経周囲の環境を維持しているグリア細胞に注目して、ALSのモデルマウスを作り、その周辺環境にあるグリア細胞を治療することに挑みました。これは、多くの研究者とは逆の発想で、リスクの高い研究でした。ところが、運動神経を治療しなくても、神経周囲の環境をよくするとモデルマウスの寿命が伸びることがわかり、現在の研究につながる重要な成果を得ることができました。目の前で行われていることは一部屋のラボの中での試行錯誤にすぎませんが、それが命を生かすという壮大なテーマに直結する。そう思い、達成したことの大きさを噛みしめていました。
帰国後は独立して、理化学研究所で研究室を持たせていただきました。規模は小さかったけれど、ボスは自分。実験も、マネジメントもすべて自ら行い、チームのメンバーとゴールを共有していくことは大きな喜びであり、プレッシャーもありました。そして、名古屋大学へ着任してからもALSの研究を続ける一方でアルツハイマー病の研究などの新しいテーマにも着手し、医学生とも研究する機会を得てとても充実した毎日を送っています。
私はよく、研究室のメンバーに「研究は自分の個性が出る」といいます。真実を明らかにすることだから、自分らしさなんて入れてはいけないと思う方もいるでしょうが、どの手法を選択し、どう考えるか、さらにどのように論文にまとめるかはその研究者の判断に委ねられている。すなわち、自己表現なのです。若い学生たちに接する機会が増えていますが、みんな柔軟な発想でポテンシャルがあると思います。だから、最初から基礎研究をやろうと思わなくてもいい。臨床を経験してからでもいいですから、オリジナルの疑問や、「こうしたい」という希望を研究という「自己表現」を通して叶えたいと思って研究室の扉を叩いてください。ゆくゆくは、その興味が研究を通じて新しい治療法を生み、多くの方の幸せにつながる。目の前の1人の患者様を救う以上の喜びを感じることができるはずです。